ゆっくりなら、なんでもやれる

つぶやきKT

帰ってくるなり早々、
「おおなわ買いたい。おおなわと、こまと……けんだまと……やりたい。」
とな。

「え!おおなわ?一人用のなわとびじゃなくて?」
「今日、おおなわとアレとコレとソレ……であそんで、またやりたいの」(ほぼ聞き取れてないw)

車運転中だったのと、複数記憶はできないため、「覚えきれないから、着いたら紙に書いて」と頼むと、張り切って書いていた。
「しゃってどう書くの?」最近は、拗音の質問が多い。
鏡文字とかたまらなく好きだけど、直さなくても気づいたらそれも減っていた。ほほ〜、この字も鏡で書くのかーと別の視点でみている私としては、たのしみが続くのは、思っているより一瞬のようだ。
書けるようになったことを喜ぶのもいいし、成長はうれしいことだけど、その分消えているものも常にある。

ほしいものにまるをつける

「こまはね、持って回すのじゃなくて、ひもがシュって離れるやつだよ」
よく間違える親とわかっているので、丁寧に説明してくれます😂

園でとことんやらせてもらえる環境や、先生たちの言葉かけも、いつもありがたい。
やり出すとわりと長時間熱中するので、一輪車も気づいたらマスターしちゃったし、ローラースケートはサンタからゲットしてしばらく滑ってる。パズルも一度やり出すと300ピース完成まで黙々と着々とやり通す。それができてすごい!ということではなく、その集中してる最中の没入感がすごいなぁと思う。

集中力があるかないかではなく、元々もつ力の一つな気がする。レゴでも砂でも、わりとやり出したら止まらないなんてことは、小さいときに多く見られるのに、おとなが「集中できない」と判断しているだけのこともある。

できる・できないという1点通過でなく、
できようができまいが、やってる最中が面白いんだから、期間とか年齢とかはどうでもいい。早くできればすごい!でも、遅いからダメ!でもない。
先取りより、さかのぼって坂登る方が、その時点で成長した自分の見え方が変わっていて面白い学びもある。
こまができるようにさせたい訳でもないし、プールで泳げても泳げなくても、川で遊んでいたいし、本気で泳ぎたくなったら教えられればいいと思っている。
学校に合わせるなんて、時間も能力ももったいない。

英語も、小学校で慣れ親しむのはいいけど、話したいモードでもないのに話せるように教えたら、そりゃ嫌いな子もでる。
喋れるかどうかより、リズムを楽しむ程度でいい。学校はつまみ食いできるところと捉えて気楽に触れられれば、そんなに悩まなくて済みそうだが、やらせよう・できるように支援しよう・評価しようとすると、おとなもこどもも窮屈になる。触れるという意味では、公教育はたくさんの機会があるので、本来は素晴らしい仕組みだと思っている。
教科書だってその一つで、添い遂げすぎて囚われたらしんどいけど、使い倒さずに適度に使いこなせば、教科書を見ていやな気持ちにならなくて済む。

学校も家庭も導入するときは調子いいけど、導入だけでなく、伴走が面白く伴奏していなければ、なんだって同じこと。

子どもはおとなの訳分からん喜びや期待に付き合ってくれちゃうから頑張っちゃう(かつての自分もおそらくそうだった)けど、付き合わせなくていいおとなに徐々にでもいいから1㎜でも近づきたい。というのが今の私。

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元小学校教員/「ちいきのがっこう」共同代表/学び場づくり師/おとなの学祭・学やどり/アドラー心理学勇気づけ講座ELMリーダー 14年間小学校教師で教育現場に。 2022年からフリーランス教育活動家。 feel度walkを軸に、森、公園、まち、どんな場所でも学びと笑顔を生み出す場づくりを続ける。